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<title>山口展人</title>
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<description>山口県の博物館や美術館の展示の感想かいてます。</description>
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<pubDate>Fri, 05 Oct 2007 16:24:58 +0900</pubDate>
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<title>現在会期中のオススメ展示</title>
<description>まだ、見てないけど個人的に期待してるものも含めて。記事にしたもの山口市　(〜5/27)地味だけど意外に楽しい展示ですよ＠山大埋文山口市　(〜2/12)30才のふるさと、読書遍歴＠中原中也記念館まだ記事にしてないもの北九州市　(〜6/26)企画展「ポーラ・コレクション　花開くヨーロッパの扇」＠北九州市立小倉城庭園萩市　(〜6/19)企画展「萩・北浦のクジラ文化〜西日本最大捕鯨漁場の軌跡〜」＠萩博物館</description>
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<pubDate>Sun, 08 May 2011 20:28:36 +0900</pubDate>

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<title>(〜5/27)地味だけど意外に楽しい展示ですよ＠山大埋文</title>
<description>今回記事にしたのは山口大学埋蔵文化財資料館の企画展「資料に刻まれた記憶〜文字・記号・印から読み解く〜」です。何だかパッと見て、何の展示だか分かりづらいですけど。意外と楽しめた展示でした。以下はこんな感じです。１．何たってメインの展示がアレですからね。２．蔵書印には、意地と誇りがおしつけられてるんですね３．実験的なパネル解説がステキでした１．何たってメインの展示がアレですからね。メインは何と蔵書印！本にはどこの蔵書なのか印がうたれる事があるんですが。山大には前身の山口明倫館の蔵書印が残る本もあります。そんなわけで、図書館ともリンクして蔵書印に注目した展示でした。うーん、マニアック。蔵書印だけを集めた本も展示されてました。切手集めみたいなものですかね。他にもきれいな洋書の大きな辞書には本の背の逆、腹？にきれいな文様やくりぬき（めくりやすいように？）があるものも。その他に、蔵書印から分かった本の履歴をすごろくであらわしたパネルもありました。文章で説明されるより分かりやすいですね。(c) G-Line｜写真素材 PIXTA【どこかの本棚。本それぞれに歴史がある。】２．蔵書印には、意地もおしつけられてるんですね例えば、棲息堂文庫という印のものがありました。江戸時代の徳山毛利家の文庫だったらしいです。あるとき、徳山藩がおとり潰しになった時期がありました。これは前に周南市美術博物館でみた例の一件ですね。そのときに、徳山毛利家の棲息堂文庫は山口の明倫館の蔵書になってそのハンコが押されました。しかし、再び徳山藩が復活したときには文庫も戻ってきました。そのときどうしたか。なんとわざわざ明倫館のハンコの上に再び棲息堂文庫の印が押されたようです。徳山藩の意地ですがな！また、小倉藩の藩の学校である思永館の本には奇兵隊の印がありました。なぜ、小倉藩の蔵書に奇兵隊の印があるのか？あの坂本龍馬も参戦したという第二次長州征伐のときに、長州藩が小倉藩に勝って手に入れた戦利品として奇兵隊のものになったようです。勝ったぞーっていう証しみたいなもんですね。インターネットのない時代、書物は重要な情報源ですもんね。蔵書印の履歴からどこが情報を制したかが分かりますね。【会場にあったスタンプ。あれ？図書館にもあった奴？】３．実験的なパネル解説がステキでした最も感動したのが墨書土器や木簡や木の杭の記号などについて書かれたパネル解説文です。資料を見て、それが何を示すかについて推理するような形で書かれています。学生さんがつくったみたいですね。ぜひ、現場で読んでみてください。資料を見る楽しみが伝わりそうです。専門用語だらけの短い解説文より、こんな文章なら文字数が増えても読んでて疲れそうにありません。満足度も高そうです。蔵書印をとりあげるとか、解説文とかで色々な展示の実験がなされてますね。ただ残念なのは土日祝日が休みな事。研修の意味も含めて学生アルバイトなどを雇って開館して欲しいですね。【資料館の入口。】深沢紅炉／著『私の印づくり』オリジナルの印をつくって遊びましょう。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店【ビーケーワン】　全国書店のe-hon</description>
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<category>・山大埋文資料館</category>
<pubDate>Sun, 08 May 2011 20:22:35 +0900</pubDate>

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<title>(〜5/8)「そうせい」上司がついに決心した!!@山口市歴民</title>
<description>さてさて、今回はけっこうマニアックなものです。山口市歴史民俗資料館の企画展「殿様の小姓が見た明治維新−長州藩士河北一とその周辺−」です。河北一と聞いて、あぁ、あの人ねって分かる人ってどれだけいるかな？僕もはじめて知りました。以下はこんな感じです。１．河北一(はじめ)、じつはなかなかキーパーソンでした２．長州藩の「やったるぞ！」宣言は「鏡開き」からだった３．「そうせい」上司は部下からどう見られているか？１．河北一(はじめ)、じつはなかなかキーパーソンでした河北一の略歴はこちらに書かれてますね。母親フキは村田清風の姪、妻の伊登は前原一誠の妹らしいです。そして、毛利敬親の小姓(秘書みたいなもの？)を務めました。あと、有名どころでは木戸孝允とともに薩摩に遣わされたようですね。ふむふむ、何となく分かってきました。河北一の略歴1833(天保4)年　萩城下に生まれる。1854(安政元)年　日米和親条約結ばれる。1862(文久2)年　御小姓となる。1863(文久3)年　長州藩が下関で外国船を砲撃し、攘夷決行。七卿落ち。1864(文久4)年　御具足祝式(おぐそくいわいしき)が行われる。1864(元治元)年　禁門の変で、長州敗退。第一次長州征伐。四国連合艦隊下関砲撃事件。高杉晋作が功山寺で挙兵。1866(慶應2)年　木戸孝允とともに薩摩に遣わされる。1866(慶應2)年　薩長同盟。第二次長州征伐(四境戦争)で長州藩勝利。1867(慶應3)年　大政奉還。1903(明治36)年　「御具足祝式図」が完成し、三田尻毛利家に献上。1907(明治40)年　75才で亡くなる。ちなみに、一の長男、河北勘七は小野田セメント株式会社(現在の太平洋セメント株式会社)の社長、株式会社百十銀行(現在の山口銀行)の監査役となった人。ほほぉ、こんな感じでつながってくるんですね。河北一、実はなかなかキーパーソンではないですか。【山口市歴史民俗資料館入口。】２．長州藩の「やったるぞ！」宣言は「鏡開き」からだった今回の展示では特に、河北一が作って毛利家に献上した「御具足祝式図」がメインぽかったです。御具足祝式というのはそもそも、お武家さんが正月に武具の鏡開きをしたようなもの。ただし、江戸時代には平和な時代が長く続いて自然と消滅したようです。1864(文久4)年に毛利敬親がそれを復活させ、河北一も準備し参列しました。そして、1903(明治36)年になって、河北一がその様子を「御具足祝式図」として記録に残し毛利家に献上したそうです。なぜ、河北一が40年も前の儀式のことをわざわざ記録に残したのか？その理由が伺える新聞記事があります。明治36年の防長新聞の記事のなかに「御具足祝式図」の事が載りました。会場でもらう資料にその現代語訳がのせてあります。それによると、御具足祝式で毛利敬親は「勤王の為には防長二州は仮令(たとえ)焦土となるとも何かあらん、況(いわ)んや身命をや、汝(なんじ)ら宜しく此の意を体し、予を助けて功を奏さしめよ」と言ったそうです。このあと、長州藩は禁門の変、第一次長州征伐、四国連合艦隊、第二次長州征伐、薩長同盟などなどを経て、御具足祝式から３年後には大政奉還へと時代が動くんですよねぇ。そう考えると、あの御具足祝式ってのは長州藩が「これからやったるぞ！」という決行式だったのかも。だから、河北一も明治になって感慨深く当時を思い起こして改めて記録に残したのかもね。【会場でもらえる資料。なかに防長新聞の記事の現代語訳があります。】３．「そうせい」上司は部下からどう見られているか？河北一の毛利敬親の小姓でした。小姓というのは秘書のような役目らしいです。毛利敬親と言えば、家臣の意見をそのまま通した「そうせい侯」として有名ですよね。どっちかと言えば、自分がなくマイナス評価されちゃいそうなキャラクター。そのおかげで、志士達が活躍できたんだとも言われますけど。河北一は殿様の人となりについて、奇行がなかったとか、贅沢をしなかったとか、仁心にあふれていたとか語っていたようですが、馬乗りの家の者が落馬したというので、その家を取り潰したという厳しい一面のあったことも紹介されています。河北一からすれば、ちゃんとした？決断のできる主君だったみたいです。上に書いた御具足祝式の一件にしてもそうですね。「そうせい」上司も実はちゃんとキメるべきときには決めていたみたいですね。そういう面がしっかりあるからこそ、その人の「そうせい」に部下たちは安心して活躍できたのでしょうね。展示については、もう少しストーリー性があったら面白いのにと思いました。河北家文書をとりあえず、紹介してみましたっていう感じでそっけなかったかな。それから、文書にはやっぱり活字化したものが横に欲しいですね。素人にはさっぱり分かりません。今回のなんか、ほとんどの資料はそんなに長くもないから全文つけてもいいくらい。しかし、ほとんど名も知られていない人物から見た、明治維新っていうのは面白い視点ですね。そこらへんでまた企画展やって欲しいなぁ。ちなみに、５月３日(祝・火)には13時30分からギャラリートークがあるようです。【毛利家家紋がはいった鬼瓦。】</description>
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<category>・山口市歴民</category>
<pubDate>Fri, 29 Apr 2011 23:15:09 +0900</pubDate>

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<title>(〜2/12)30才のふるさと、読書遍歴＠中原中也記念館</title>
<description>前回の記事から二週間が過ぎてしまいました。東日本大震災も一ヶ月がたち、その事を記事にするために時間がかかった・・・というわけではありません。ただ、他のやるべき作業に忙しかっただけです。はい。もちろん、震災の事についてもいつかは再び記事にしたいなぁとは思ってますが。さて、今回は山口市の湯田温泉にある中原中也記念館です。「汚れつちまつた悲しみに」といった詩が有名な中原中也。１年間常設される常設テーマ展示「これが私の故里だ」。そして、もう終わってしまったのだけど、企画展「中也が読んだ本」について。以下はこんな感じです。１．中也青年にとってのふるさと２．中也とちがって、中也の祖父や父は郷土LOVE３．「中也が読んだ本」から中也の頭ん中をのぞきみる１．中也青年にとってのふるさとまずは、常設テーマ展示「これが私の故里だ」。これは来年、平成24年の２月12日まで一年間展示されているものです。常設展と言いつつ１年毎の企画展のようなもの。中也の生涯とともに、ふるさととの関係などが展示されています。中也の小学６年のときの答案用紙なんかもありますよ。もちろん自筆。そして、もちろん100点だったり。ごくごく簡単に特に湯田との関係を中心に略年表を抜き書きしてみれば。明治40年（０歳）	4月29日、父謙助、母フクの長男として、現在の湯田温泉に誕生。大正9年（13歳）	4月、県立山口中学に入学。文学が忙しく学業を怠るようになる。大正12年（16歳）	3月、落第。4月、京都の立命館中学第３学年に編入学。その後、まぁいろいろあって。昭和9年（27歳）	12月、『山羊の歌』を文圃堂書店より刊行。昭和11年（29歳）11月、幼くして長男文也病没。ここで精神的にまいる。昭和12年（30歳）千葉の療養所から鎌倉に転居。夏、帰郷を決意する。でも結局それはかなわず10月22日に亡くなりました。ある日記の文章が展示されてました。「僕はもう都会なんぞに憧れはせぬ。文化なんぞは知れたもの。然し田舎も愛しはえぬ。僕が愛すは漂泊だ」たしかこんな感じ。30才っていう若さで亡くなった中也ですから、まだまだふるさとに懐かしさってものはそんなに感じられなかったかもしれませんね。いや、中也ならおじいちゃんになっても、ふらふらしてたかも知れませんが(笑)。ただ、山口の地元の風景を描いた詩や、「冬の長門峡」なんて詩もあったりしますね。おっ、ここで長門峡が出てきますか。前に高島北海の記事で書いたように、北海の尽力で長門峡が国指定名勝となるのが1923(大正12)年、中也が16才のころ。北海がいなければ、「冬の長門峡」という詩は生まれなかったかも。【記念館入口。】２．中也とちがって、中也の祖父や父は郷土LOVE僕はこの展示ではじめて知ったんですけど、中也の父や養祖父は大変な郷土愛の持ち主だったんですね。というより、昔の町のいわゆる有力者だったってところかな。中也の養祖父の政熊はフランシスコ・サビエルの記念碑を、父親の謙助は近くの高田公園の七卿おちの石碑を建てていますね。うーん、地域の歴史が関わってくるここらへんがやっぱ僕には面白い。詩人中也や中也の作った詩は僕にはまだまだとっつきにくいんですよね。よく分からんのです。それに比べて、中也が育った時代とか歴史的な背景とか、そういったところが大変面白い。キリスト教やら明治維新の土地とか色々まざってきて。そして、中也自身の日記とか言動とかもちゃんと読んでいったら面白そうなんだよなぁ。高田公園には中也の詩碑も後にたてらます。&gt;【高田公園内にある中也の詩碑。「帰郷」の一部。】３．「中也が読んだ本」から中也の頭ん中をのぞきみる企画展「中也が読んだ本」。中也は弟に対してこんな言葉を残しています。「本を読めよ。とにかく読むんだ。学校の本なんか一日で読んで何でも読め。本を買ってくれなければ家中暴れ廻ってやれ」なんてね。また、「速く読める本は大概駄目な本だ。ゆっくりしか読めない本を選び出してよくよく読むことだ」なんて言葉も。うーん、確かに中也の詩はすんなりとは読めない。ところで、会場には中也の読書歴一覧表がありました。これを見ると、息子の文也の死後あきらかに心理学や宗教、哲学っぽいのが中心になっていますね。本棚ってのはその人が出来上がる為の要素が表れますね。そういう面がみれる良い展示でした。読書リストってどこか本とかに載ってるんですかね。調べてみたくなりました。にしても30才までにこれだけ読んでいたんですね。うん。スゴいっす・・・。【高田公園入口。】中原フク／述、村上護／編『私の上に降る雪は』中也の母、フクが中也について語ったもの。家族からみた中也の姿って・・・。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店【ビーケーワン】　全国書店のe-hon</description>
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<category>・中原中也記念館</category>
<pubDate>Thu, 21 Apr 2011 21:23:05 +0900</pubDate>

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<title>(〜5/8)悲しみには描くしかなかった香月＠山口県立美術館</title>
<description>今年は長門市出身の画家、香月泰男の生誕100周年なんですね。今回は、山口県立美術館の「生誕100年　香月泰男　追憶のシベリア」に行ってきました。長門市の香月泰男美術館、や下関市立美術館でも生誕100年の記念の展示がありますね。香月泰男美術館はこちらの記事にもしてますが。また行かねば。100年前というと明治44年だそうです。ちなみに岡本太郎も同い年だそうな。で、以下はこんな感じです。１．「記録」ではなく、「追憶」されたシベリアを見よ２．香月泰男が黄土色と黒で描き続けたその理由３．悲しみの画家が愛したのは妻であり家族であった１．「記録」ではなく、「追憶」されたシベリアを見よさてさて、今回の展示の特徴は作品の展示順序にあります。これまでの展示では香月の歴史的な順序で並べる事が多かったそうです。今回はそうではなくて、描かれた順に並べられたものでした。学芸員さんが言っていましたが、香月のシベリア・シリーズは感動しなくてはいけないものなのか？という問題があります。シベリア抑留という歴史的な悲劇を学ぼうという姿勢でしか見れないものなのか。もっと他の見方はできないのかという疑問があったそうです。画家の作品としては、描いた順に見る事の方が普通なのに、ついつい歴史資料のように見てしまっていたかもしれませんね。描かれた順で見る事で、また違った視点が生まれてきます。先に描かれたのは、香月のなかで一番印象に残った部分からと解釈できるかもしれません。逆に、自身の悲しい体験を描くという意味では、まだ描きやすいそんなにつらくはない部分から描いたとも言えるかもしれません。いづれにしろ、記録ではなく「追憶」されたシベリアという視点でシベリア・シリーズを見てみようという新たな意図をもった展示ですね。全体の展示構成としては、まずシベリア・シリーズ、その後に香月の生い立ちや家族への絵手紙とシベリア抑留のあらましみたいな流れでした。僕としては、香月の半生などを先に見てから、シベリア・シリーズを描いた順で見てみたかったなぁと思いました。でも、それってやっぱり歴史的に見ちゃうことになるのかな(笑)【香月泰男の「シベリア」行路1943-1947。会場で入手。】２．香月泰男が黄土色と黒で描き続けたその理由香月泰男というと、シベリア・シリーズにある黄土色と黒を基調にしたイメージのものが多いですね。でも、並べられた初期の作品には意外にも赤や緑なども使って色鮮やかな絵もありました。シベリア・シリーズと呼ばれているものでも初期のものは明るい感じです。そして、中断を経て再び描き出したときに、あの黒と黄土色の絵が出てくるんですね。シベリアのつらい体験を描くには、この手法でないといけなかっただろうなぁ。シベリア・シリーズと呼ばれる57点の作品は、帰国した1947年から亡くなる1974年まで描かれました。1949から1955年は中断して、1960年からシリーズとして意識されただしたそうです。それ以降はシリーズとして欠けていた応召や復帰後などの前後の出来事を補うように作品を増やしていきました。近所の左官を見てシベリアでの強制労働を思い出し。ブルトーザーを見ればキャタピラを、テレビのデモからはデモに参加させられた事を思い出しては作品にしていったそうです。もしかしたら、思い出したくはなかったかもしれないけど、つい日常のなかで頭にうかんできてしまうんだろうなぁ。忘れそうになるけど、あるいは忘れたい一方で忘れまいとする気持ち。その葛藤のなかで描くしかない。はきだすしかない。描くという事が自分の悲しい過去に向き合う事がだったそうです。そして、最後の絶筆の作品にある顔は亡くなった人たちの顔だったのかな。コレクション展には抑留された他の画家の作品もありました。でも、シベリア・シリーズほどに一生描き続けたのは香月だけだったそうです。【香月は言った。「シベリアを描きながら、私はもう一度シベリアを体験している。」】３．悲しみの画家が愛したのは妻であり家族であった展示会場の中間地点には、ビデオコーナーがありました。香月泰男の妻である婦美子さんが想い出を語ったものです。笑顔がなんとも可愛らしい方です。香月はハイラルへ出兵中に毎日のように家族にはがきを書いて送っています。もちろん香月が描いた絵つきです。いや、戦地からなんだから絵を描くなんて珍しいのかも。漢字を読めない子供宛にはカタカナでといった優しさもみられます。また、シベリアから長門に帰って来てからも家族愛は続きます。奥さんの仕事場である台所の壁には色鮮やかな花々を描いたそうですよ。あのシベリア・シリーズの雰囲気とは全く違った少女マンガのような明るさで。他にも、色々なエピソードがありました。また、yabでは４月２日に特別番組がありましたね。会場の映像はこれが元ネタなのかな。番組ではヨーロッパへのスケッチ遊学に奥さんも同行した様子が当時のフィルムの映像がありました。仲の良さそうな様子が伝わってきますね。４月29日には再放送がありますよ。また、最近NHKでは朝の７時45分くらいからの山口のニュースで作品紹介がされてますね。【４月29日には山口朝日放送で特別番組(再放送)がありますよ。】香月泰男／著、香月婦美子／監修『香月泰男一瞬一生の画業』シベリア・シリーズをはじめ、香月泰男の生涯と各作品をまとめた入門的一冊。奥さんの監修ってのも◎商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店【ビーケーワン】　全国書店のe-hon</description>
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<category>・山口県立美術館</category>
<pubDate>Thu, 07 Apr 2011 21:36:20 +0900</pubDate>

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<title>〜4/4あの「女」が宇部市にいたなんて！＠ときわミュージアム</title>
<description>ときわ公園内にあるときわミュージアムの「没後百年 愛に生きた彫刻家荻原守衛 -“女”の表現とその技法-展」に行ってきました。荻原守衛の女とはこちらの作品です。美術の教科書にのっていたような記憶がありますね。教科書にのるようなものが何で宇部なんかに？(笑)と思ってしまいますが。この手の彫刻は原型から鋳造でいくつもつくる事ができるんですね。で、宇部市にある「女」は宇部市連合婦人会の寄贈によるものらしいです。ちなみに、場所はときわ湖水ホールという分館にあたる建物のほうですよ。以下はこんな感じです。１．荻原守衛の13年実らぬ愛から生まれた「女」２．「言葉」「作品」「体験」「つながり」が揃った展示とは？３．宇部市内に218個の彫刻を全部見るには？１．荻原守衛の13年実らぬ愛から生まれた「女」荻原守衛の略歴はこちら。もちろん、碌山美術館にもありますね。1879(明治12)年　長野県安曇野市に生まれる。両親の離婚後、祖父に育てられる。1896(明治29)年　17歳のとき、先輩の妻である相馬良（黒光）に出会う。　　　　　　　　　東京の女学校で学んだ黒光から、文学や芸術を学び、画家を志す。1901(明治34)年　22歳のとき、渡米して美術を学ぶ。1904(明治37)年　25歳のとき、訪れたフランスでロダンの「考える人」を見て、彫刻へ。1907(明治40)年　28歳のとき、ロダンに面会。「坑夫」製作。1908(明治41)年　29歳のとき、帰国。黒光と再会し、黒光への愛に苦しむ。1910(明治43)年　満30歳。「女」製作。吐血して亡くなる。荻原守衛は17歳のときに、先輩の妻である相馬良（黒光）と出会います。黒光は東京の女学校をでた才女で、芸術や文学などの話を守衛としていたそうな。そうして、守衛は画家を志していくとともに、黒光への実らぬ想いも膨らませていきました。「女」は、その黒光を想ってつくられたようです。後ろ手にしばれれたような姿勢ながらも、上を見上げる姿が当時の習慣に縛られながらも輝いて生きる女性像であり、黒光の姿であったと解説されます。守衛は「love is art,struggle is beauty.(愛は芸術なり　相剋は美なり)」という言葉も残しているそうです。「女」はまさにそれを表現したといえるのかもしれませんね。【ときわミュージアム分館。】２．「言葉」「作品」「体験」「つながり」が揃った展示とは？さて、展示はというと、はじめに荻原自身や、荻原と交流が会った高村光雲など人たち、そして黒光の言葉などが年譜とともにならんでいます。長く文章が続くんですが、これを全部読む猛者はいるのでしょうか(笑)？一部読んでみた黒光の言葉はちょっとした恋愛ものの描写として面白いですよ。次に、荻原の他の作品や、「女」を構想したスケッチなど。そして、宇部市にある「女」そのものが並びます。よく見ると「女」の背中は実はけっこう雑なつくりなんですね。未完成だったのかな。でも、出品はしているしなぁ。それから、後半はワークショップとして実施された｢鋳造たいけん！｣の様子。写真と実際につくられた作品が展示されています。そして、ここからが面白いなと思ったのは彫刻をつくるときの「鋳造」についての技術的な解説。これが宇部の宇部スチールという会社での鋳造の様子なども紹介されています。ここで、私達の日常の社会と非日常っぽい彫刻という芸術作品とがつながる点が良い。実は宇部という工業都市は、金属などを素材とする彫刻とは相性が良いのかもしれませんね。彫刻を通して、文化と工業が出会える場所としての宇部が特徴づけられそう。その人を語る「言葉」、表現された「作品」、実感する「たいけん」、今の私達の生活との「つながり」。多様な要素がつまった良い展示構成でした。ただ、あの解説文を全部立ちながら読むのはつらい。展示会場ではパッと手軽に見れる内容のパネルの方が良いかと思います。より詳しい内容はホームページにPDFなどで配信すると便利。お持ち帰り用のパンフに載せるのもお土産感覚で嬉しいですね。【石炭記念館前の坑夫。実はこれも荻原の作品。】３．宇部市内に218個の彫刻を全部見るには？「ときわ公園彫刻ウォーキングマップ」「宇部市街地彫刻ウォーキングマップ」が会場で配られていました。ときわ公園には101個、宇部市街地で117個も彫刻が設置してあるんですね。ちなみに、「宇部市デジタルアーカイブ　うべ蔵くん」に彫刻のデータベースもありますね。ここには個々の作品の解説みたいなものもあります。せっかくだから、この解説を携帯とかで現地で見れるようにしてくれればいいのにな。QRコードを使って携帯で情報を読めるようにするとか。他にもの作品同士をつなげる物語やコース、タグとかもつけると巡りやすいなぁ。宇部の彫刻といえば50年の歴史をもつ彫刻展。前に書いた記事は2007年の第22回現代日本彫刻展。今は「ＵＢＥビエンナーレ」となってますね。それで、50周年の今年は第24回UBEビエンナーレ（現代日本彫刻展）で、2011年9月24日（土）〜11月13日（日）にあるそうですよ。【彫刻ウォーキングマップ。全部見れるだろうか(笑)】相馬黒光／著、『相馬黒光　黙移』荻原守衛が愛し続けた黒光の自伝です。守衛以外にも多彩な文学人、芸術家と交流があったんですね。黒光の魅力が伝わります。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店【ビーケーワン】　全国書店のe-hon宇佐美 承／著、『新宿中村屋 相馬黒光』こちらは黒光の評伝です。あの時代のなかでの黒光の人生をみていきます。自伝とは違った視点がひらけるでしょうね。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店【ビーケーワン】　全国書店のe-hon</description>
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<category>・ときわミュージアム</category>
<pubDate>Thu, 31 Mar 2011 18:41:41 +0900</pubDate>

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<title>(〜3/31)超石頭なオルメカ文明＠いのちのたび博物館</title>
<description>北九州市のいのちのたび博物館の「古代メキシコ・オルメカ文明展　マヤへの道」に行ってきました。これは朝日新聞社の企画で巡回するんですね。オルメカ文明というのは、紀元前1500年から400年ぐらいにメキシコに栄えた「文明」らしいです。で、何が有名ってデッカい石頭！等身大を遥かに越えて、頭だけで2m近くある石で出来た頭像が土の中からあらわれちゃったから、さぁ大変。なんじゃこりゃ！！ってやつですね。展示されていたのは、その大きな石頭やレリーフ、翡翠の仮面、石斧、土偶のような人形などでした。多くは信仰に関わるようなものが中心でした。以下はこんな感じです。１．2000年以上前のメキシコと日本にそっくりなもの！２．大人な鑑賞法　縛られてしまったのか、自ら縛られるのか３．この春休みに子供たちにうってつけの展示ですよ１．2000年以上前のメキシコと日本にそっくりなもの！展示の最初には、日本の年表と比べるところがあってわかりやすかったですね。が、メモるのを忘れちゃいました。インターネットで調べてみると紀元前1500年から400年くらいなのかな。そうするとおおよそ、縄文時代の終わりから弥生時代の始めぐらいにかけてでしょうかね。オルメカ文明の方はまだまだ資料も少なそうなので、何百年単位でがばっと新説がでそうですが。土器を見てるとなんかスベスベした感じとかが弥生土器に近いなぁなんて思ったり。あのぐちゃぐちゃしたような縄文土器なんかの方が世界的には異常で、多くは弥生土器みたいなシンプルな文様が多いのかもしれませんね。大切に埋められたいたらしい大量の磨製石斧もありました。なんか、もう形そのまんまなくらいそっくりですよ。スゴいなぁ。隣国とはいえ、太平洋をはさんで大きく離れた地であんだけそっくりなものができちゃうもんなんですね。全然違う文化をもちながら、つくられた道具の形が一緒ってのは面白いですね。せっかくこの博物館は日本の縄文や弥生の遺物持ってるんだから、展示の中で１、２点でも比べて並べてみても良かったのかも。磨製石斧なんかよう似てるんだし。それだけでも、オルメカ文明やメキシコに親近感わくと思うなぁ。【いのちのたび博物館入口。メインは「でかっ！」】２．大人な鑑賞法　縛られてしまったのか、自ら縛られるのか石でできたレリーフがありました。そのなかで、中央の王らしき人に対してひざまずいている人物の腕には何やら文様が。これについて「腕をしばられた捕虜」みたいなニュアンスの解説文がありました。でも、はたしてそうなのかな。例えば、お念珠をもった姿勢なんかを絵にすれば、手が数珠で縛られているようだけど、あれを縛られた可哀想な人とは言わないでしょ。何らかの礼作法の様子じゃないのかな。座り方も、片膝かあぐらか、その人の身分によって差があるようにも見える。ある姿を見ても、その人がどういう気持ちでその格好なのかなんて実は他人には分からないですよね。色んな解釈もできそうだけど、「捕虜」とする根拠はなんだったんだろう。展示に限らず何にしても人の解釈を、あまり鵜呑みにするのはよく無いですね。大人も謎解き気分で、自分の眼で見て、自分で新たな視点を考える良い訓練になりそうです。【ゴールでは、記念撮影できちゃいます。カブリものまでありますよ。】３．この春休みに子供たちにうってつけの展示ですよさてさて、今回の展示を見ていて気付いたのは展示物が大人の膝くらいに低い事。展示物自体が小さいものが多い事もあって、これ、大人には少し見づらい高さ。でも、きっと子供の背の目線を意識してるんだろうな。スタンプ集めやクイズ、球技に使われるゴム玉を触ったり、翡翠に穴をあける体験だったり、子供用の解説があったり、子供さんに親切。こういったところは、朝日新聞社のメディア側のノウハウなのかも。前に『展示論』で、いのちのたび博物館の建物のつくりの事も、メディアとの関わりの事も書いたけど、やっぱここの博物館はなかなか面白いですね。子供は何じゃこりゃっていうだけで楽しめそうな展示でした。大人でも、色んな解釈を考えて遊べそうだし。まだまだ研究の途上という感じなので誰でもその場で学者気分で議論ができそうな気がしますね。【左はチラシ。右はスタンプ集めとクイズ。】芝崎みゆき／著、『古代マヤ・アステカ不可思議大全』マンガやイラストで読みやすいですよ。オルメカもあります。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店【ビーケーワン】　全国書店のe-hon</description>
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<category>・いのちのたび博物館</category>
<pubDate>Thu, 24 Mar 2011 20:57:50 +0900</pubDate>

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<title>情報化社会のなかでラジオを聞く「不謹慎な」日本人</title>
<description>先週の３月１１日に東北関東大震災は始まりました。連日テレビでは特番編成で伝わってきています。山口県民である僕ができることは義援金ぐらいです。あとは、この事を数ヶ月で忘れてしまうのではなく、半年、数年後も心身ともに支援する準備を心がけることかと思います。もし、被災者の方やその家族と出会う事があれば、そのときに少しでも心に寄り添えるように。以下は少し遠いところからしか見守る事のできない自分として思ったことです。１．情報化社会のはずが、「情報がない」という状況２．テレビにできていないこと　ラジオにできること３．今、日本人としてあるべき姿とは？フツーの日常は不謹慎か？１．情報化社会のはずが、「情報がない」という状況安否確認にしても、物資にしても、原発の事にしても情報が欲しいと被災者の方々が言っています。これだけ情報化社会だといわれていながら。あまりにも被災地域が広域で、対策が十分ではなかったという事なんですかね。それにしても、全体の連携がうまくいっていなさすぎじゃないですかね。一方で、情報化社会だからこその動きもあります。被災地域外でプロアマ問わずインターネットを利用した情報整理が実行されています。被災地の皆さまへ、避難所名簿共有サービス開始のお知らせ東北沖地震 震災情報サイト sinsai.info被災地でつぶやかれたツィートだけ表示検索するサイトです。しかも。これらが公じゃないところからってのスゴい。国や旧来のマスコミ以外でも情報発信できる情報化社会さまさまですね。国や自治体もこれらを利用して有効に活用して欲しいなぁ。そして、次への対策にも盛り込んで欲しい。ちなみに、博物館関係でも色々ありますね。savemuseum @ ウィキ-東日本大地震によるミュージアムの被災情報・救援情報全国美術館会議　大規模災害への対応に関する参考資料そして、阪神大震災後の博物館として。神戸市立博物館　震災と博物館阪神・淡路大震災記念　人と防災未来センター(c) ぬさぎ｜写真素材 PIXTA２．テレビにできていないこと　ラジオにできること僕はけっこうラジオ好きな方です。ラジオ業界は最近では衰退していっていますね。しかし、今回の震災ではラジオって残すべきだなぁと思ったのです。ラジオは停電でも電池で動くし、携帯やインターネッでも最近では聞けますね。何より、ラジオから流れる音楽や歌の力って本当にスゴいんだなぁと改めて思えました。これまでは、実は僕は歌の力とかいうのはあまり期待してませんでした。アーティストや送り手側による正当性の主張ぐらいにしか思えませんでした。が、普通に音楽が流れる状況というのでどんだけ救われる気持ちになるのことか。「震災以後久しぶりに音楽を聴いたのがラジオだった」という被災者の方の言葉がありました。テレビではずっと緊急報道番組だけです。こういう時だからこそ、被災者も見守る側も音楽や歌、お笑いで普通の感覚を取り戻す事も大切だと思います。その点でもラジオやラジオを聞く文化はこれからも残っていって欲しいですね。テレビではマスコミによる政府や東電などへの対応を批判するような論調が目立ってきています。いまはそんな事より、必要な情報を流しつづける事に専念して欲しい。どこに何が足りないのか、何をすべきなのか。取材に入ると同時に、物資の運搬や情報伝達の一助になってほしい。検証はあとから冷静にみんなですればいい。本当に今、必要なことを各々考えていかねば。(c) toko｜写真素材 PIXTA３．今、日本人としてあるべき姿とは？フツーの日常は不謹慎か？外国では被災地でパニックが起こらず、日本人が静かに並ぶ様子などに讃辞が贈られているらしいですね。確かに他国に比べればよく「並ぶ」国民かもしれない。けど、僕は知っている。帰宅難民で、バスを、電車を競い合うように乗り込もうとする人を。阪神大震災のときには焼き芋をバカ高い値段で売った人がいたことを。そして、少しずつですが現地でも略奪らしい事もあっているみたいです。ある種のオリエンタリズム、あるいは禅的な、武士道的な幻想を日本に期待されるのですが。そうでもないのが日本の実態です。もちろん讃えられるべき「古き良き日本」を感じさせる事もある。避難所となった中学生が積極的に手伝っていたり。お年寄りの方の方が逆に、若者や子供に声をかけ励ましていたり。ツイッターやネットで必要な情報をまとめる人がいたり。そういう事を聞くと、やっぱり同じ国として嬉しい気持ちがしてきます。一方で、被災地でない西日本の人が普通に日常生活をはしゃぐのをブログやツイッターにあげたのを不謹慎だと責められているらしいです。逆にそんなにじっとしていたら、経済が危うい、普通の日常をする事、テレビでも普通の番組を流す事こそが復興へとつながる西日本のすべき事だという人もいる。どちらか、一方が正しいって事じゃないと思う。今、悲しみのなかにいる人もいる。逆に、次への一歩へ進むため、元気になりたい人もいる。被災地にも、非被災地にも。だから、みんながみんな同じである必要はないんじゃないかな。それぞれが、今自分のできる事、していきたい事をしていけばいい。他の人を非難したりするのは、あとでゆっくり見直していきまっしょい。(c) puppy｜写真素材 PIXTA今回は、普通に記事をあげるか考えていましたけど。僕自身はなかなか通常の記事を書く気になりにくかったので。やっぱり、いま思うこと、震災のことを書きました。もちろん、他の人が今まで通りの記事をあげているのに文句を言うつもりもありません(笑)実は珍しく記事にしたいストックがたまっています。というわけで、来週にはまた、山口の博物館・美術館について書いていこうと思います。</description>
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<pubDate>Wed, 16 Mar 2011 21:52:34 +0900</pubDate>

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<title>(〜3/27)生誕100年香月泰男のオモチャ@香月泰男美術館</title>
<description>来年は山口で国体がある年ですね。千葉国体では山口の選手の資格の問題でひと騒動ありましたが。単なる賞レースになってしまうだけでなく、地方のスポーツ振興という面でいい機会になる方に力をいれて欲しいところです。ところで、山口県といえば、黄色いガードレール。前回の国体で夏ミカン色って事で採用されたのが起源らしいですね。今回は何かそういうの用意されてるのかな？さてさて、今回の展示は長門市にある香月泰男美術館の「国体プレ企画展 　山口探訪・名勝、旧跡を描く」です。香月泰男が1963年（昭和38）に新聞の挿絵に描いたスケッチの展示です。ちなみに同年に山口で国体が行われています。そこらへんのからみは下にも書いてます。以下はこんな感じです。１．100回目のHappy Birth Year　香月泰男２．香月泰男がキレちゃった、その理由は？３．詩人　香月泰男がオモチャに込めた想いって何だったんだろう１．100回目のHappy Birth Year　香月泰男香月泰男の略歴はこちら。1911年　長門市三隅町に生まれる。両親の離婚後、祖父に育てられる。1931年　20歳のとき、東京美術学校に入学、卒業後高校の美術教師となる。後に下関高等女学校に赴任。1942年　31歳のとき、召集され満州へ。1945年　34歳、シベリアの収容所で厳しい抑留生活。1947年　36歳、帰国し、高校教師へ下関高等女学校復職。1948年　37歳、三隅にもどり、深川高等女学校に転任。1960年　49歳、退職。1974年　63歳、死去。今年は生誕100年にあたるんですね。それで、山口県立美術館でも企画展があります。そちらはまた後日記事にしようかと。香月泰男美術館は実は初の記事ですね。これまでも何回かは訪れていたのですが。記事にならず。代わりに下関や山口ではよく見ています。下関に所蔵があるのは女学校に勤務していたからですかね。2008年2月４日には下関市立美術館でメッセージが伝わってきて良いといい、2008年３月５日には、山口県立美術館で小林和作よりは分かりやすいといい、2008年３月24日には、下関市立美術館でなんか分からなくなってきたと言ったかと思えば、2008年８月14日には、山口県立美術館で、作者のコメントもあって良いなんていってますね。うん、我ながらゆらゆらしたもんだ(笑)【香月泰男美術館入口。】２．香月泰男がキレちゃった、その理由は？今回の企画展のメインは新聞の連載にのった挿絵だったはずなんですが。どっちかというと僕は別のものの方が大変気になったわけです。それは、香月さんが前回の山口国体でデザインしたメダルが展示されていたのです。兎と飛び魚をデザインしたもので、香月さんがつくった原型から、試作品、完成品まで展示されていました。そのエピソードが気になる。原型からできてきたメダルを見て、香月さんはひどく怒ったらしいです。その理由は今では分からないらしいのです。うーん、展示品を見る限りはちょっと見本の方が記号化しすぎてるかなと思うけど、さほど違いが分からない(笑)でも、次第に香月さんも納得したみたいで、そのまま採用されたみたいです。うーん、何が気に入らなかったんでしょうかね。どっか本に書いてないのかなぁ。【中庭。香月のオモチャが拡大されて並びます。】３．詩人　香月泰男がオモチャに込めた想いって何だったんだろう香月の作品には、絵画のほかに金属片や木片などを使ってつくったオモチャがあります。がらくただったものが人や動物などの命もつものとしていきかえっていますね。シベリアでがらくた同然の扱いをうけた体験からきたものでしょうかね。そのがらくたたちに命を吹きこむ作業は、かつてのつらい体験に命を与えようとすることと関わるのかもしれませんね。福島慶子「香月泰男の死」『芸術新潮』1974からの抜粋が壁にかけられてました。「香月は詩人だった・・・（中略）・・・香月さんの作品には説教くささが見られない。これは思想が付け焼き刃ではなく香月さんの持って生まれた性質に根ざしているものだから」説教くさくなるのは理屈でせめるからでしょうね。でも、人間は心をもっているから、体や心からこぼれだしたものの方が人に伝わり易いんだろうなぁ。だからこそ、香月というその人にも興味が深まります。山口県立美術館の展示はもう見に行ってはいるのですが、もうちょっとまとめてから書こうかと。とりあえず、香月泰男美術館の方が会期が(〜3/27)とせまっているので、とりあえず先に書いちゃいました。山口県立美術館と一緒に見て回ってはいかがですか？【美術館に通じる道にある、香月ロードおもちゃの大行進。】香月泰男／著、谷川俊太郎／編『香月泰男のおもちゃ箱』香月泰男と詩人・谷川俊太郎とのコラボですね。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店【ビーケーワン】　全国書店のe-hon</description>
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<category>・香月泰男美術館</category>
<pubDate>Wed, 09 Mar 2011 22:20:40 +0900</pubDate>

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<title>(〜3/21)もしも地質屋が画家になったら@高島北海in下関</title>
<description>さてさて、今回の展示は下関市立美術館の「特別展　没後80年高島北海展　造化の秘密を探る」です。ちなみにタイトルは「もしドラ」すなわち『もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を真似てみました(笑)。高島北海とは、いわゆる日本画家ではありますが、ちょっと異色の経歴の持ち主です。医者の息子として生まれ、地質や山林の役人となり、後半生になってやっと画家という肩書きになるといった人でした。そして、作品にもその影響がみられ、地質学や植物学などの知識をもって描かれたものでした。さらには、長門峡などの整備などにも関わるなど地学者と画家の両立をやったような人でした。以下はこんな感じです。１．異色の画家　高島北海からのクイズに答えられますか？２．絵描きなら「腹からでたもの」をかきなさい３．金のためには描くんじゃない。夢のために描くのだ。１．異色の画家　高島北海からのクイズに答えられますか？高島北海の略歴はこちら。1850年　萩藩の藩医の次男として生まれる。1872(明治5)年　23歳のときから３年間、兵庫県・生野銀山の鉱山学校に赴任。　　　　　　　　フランス語や地質学や植物学を学ぶ。1878(明治11)年　29歳のとき、『山口県地質分布図』『山口県地質図説』を書く。　　　　　　　　　日本人による最初の地質図にあたる。1884(明治17)年　35歳のときに、森林の役人としてヨローッパへ。　　　　　　　　　山林をスケッチし、芸術家とも交流する。39歳に帰国。1897(明治30)年　48歳で役人をやめ、長府に隠棲すし、画業に専念する。1902(明治35)年　53歳には東京に移住し、中央の画壇で審査員など務める。1923(大正12)年　64歳のとき、整備に尽力した長門峡が国指定名勝となる。　　　　　　　　　関東大震災を機に長府に戻る。1931(昭和6)年　東京に上京中に亡くなる。さて、こういう経歴をもつ北海からの宿題です。展示のなかで25番の割と大きな「山水図屏風」というのがあります。そこには、洋装の男性が腰掛けています。そして、儒学者、僧侶、神官、西洋人のカップルを相手の話をしている様子のものがあります。何かを暗示したかのようなモチーフですが、これの意味は？解説にも特に解釈は書かれてません。自由に発想してってことかな。僕ならこの話し手は北海自身かと思ってます。地質学や森林学、画家、そして海外留学など多彩な面をもつ北海。日本での従来の知識者と、西洋も含めてこれからの日本人の方向性を語るといったところでしょうか。ただし、語る人の前に大黒様がもつような袋と小槌がころがっているのも何かのヒントかもしれませんね。みなさんはどう思います？【下関市立美術館。】２．絵描きなら「腹からでたもの」をかきなさいさてさて、謎解きはおいといて(笑)。全体としては山脈の画が多いですね。しかも地質学者っぽく普通の山水画とは何かちょっと違った雰囲気です。いまいちどこがどう違うのかはうまく説明できないんですけど。ちょっとリアルな感じ。でも、こういう雰囲気のものは僕は好きですね。また、北海の作品のなかでは山の絵より僕は植物のものが色鮮やかで好きですね。植物のスケッチなどの方が、より植物学者っぽく細かな描写が見て取れます。図録にのっていた高島北海の文章がありました。その中で、美術家に必要なものとして２つあげています。１つは、美の感覚を養うこと、２つは、その美を表す技能を磨くことです。「北海流の写生」ついても示しています。それは「腹から出たものをかく」ということ。実物を見て、ただそのままの形や色で表すのではなく、その物質の性質やつくりを研究してそこから自らが感じ取れた美を写し取るのだと言っています。だから、山にしても、植物にしても北海の画は写真のようなものとも違った美しさが感じられたんだなぁと思いました。そういえば吉村さんの作品でも精緻さはありますが、ただ本当に写真のようだというのともちょっと違う美を感じていたのはこの事と共通しそうですね。【今回の図録は買いでした。関連文献など資料が充実してますよ。】３．金のためには描くんじゃない。夢のために描くのだ。さてさて、晩年にも北海は他の分野の仕事を残しています。それが長門峡などの保護整備です。長門峡の名付け親でもあるそうな。今、ちょうど萩博物館の展示でもちょうど長門峡の観光案内のものが展示されてましたね。さらには青海島、石柱渓、須佐湾などの整備などにも尽力されたそうです。実は前に石柱渓の記事していました。「石の柱？超古代文明か？　旧豊田町の石柱渓」なんて随分あおったタイトルにしちゃってますね。それにしても、思わぬとところで、リンクしてくるとまた楽しいところ。美術館と博物館、それからフィールドの史跡がリンクしてくるなんて！当時の北海について娘さんの証言も図録にありました。北海はお金のための仕事はしなかったそうです。当時の横綱が「お金はいくらでも出すから化粧まわしを描いてくれ」と注文しました。その後、化粧まわしの件はどうしたのか尋ねると金が欲しい訳じゃないからと断ったそうです。でも、長門峡の整備のときは違いました。一幅百円で絵を描いて２万円のお金を工面して道路と橋をつくったそうですよ。それだけ、長門峡ってものに惚れ込んでたんでしょうね。北海が長門峡や石柱渓などの保全整備に尽力したのは、さきほどの絵描きの心得とも通じるんだろうな。後世の絵描きにもまずは実物が見れる環境を残してやっておきたいっていう気持ちもあったんじゃないでしょうかね。【石柱渓入口。左の積み石は北海を記念したものでした。】高樹のぶ子／著　『HOKKAI』高島北海の小説。防府出身の高樹のぶ子さんには「マイマイ新子」もありますね。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店ビーケーワンbk1　全国書店のe-honまた、萩市のブックレット14にも高樹のぶ子さんの講演録がありますね。今回の展示は「素材勝ち」ですね。高島北海という人に色んな面があるからそれだけでも十分面白かったです。もちろん、この素材を発見してきてこれまで蓄積してきたものがあったからこそですけどね。20年後の没後100年には研究も進んでもっと多角的に深みのある展示会ができていると良いですね。</description>
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<category>・下関市立美術館</category>
<pubDate>Wed, 02 Mar 2011 23:23:47 +0900</pubDate>

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<title>(〜2/27)長府毛利家って？いう人のための展示＠長府博物館</title>
<description>さてさて、今回の展示は「長府毛利十四代記」(〜2/27)です。長府藩の毛利家の歴代藩主についてまとめられたもの。江戸時代の山口県のお殿様は毛利家なのですが、実は４つに分かれてます。本家の萩藩のほかに、別家として清末藩、長府藩、徳山藩があるんですね。これらも必ずしも仲が良いわけではないみたいです。この前は周南市で徳山毛利家ってのもありましたね。それで、今回は長府藩の毛利家の展示ということです。会期は今週末までになってしまいましたが、少しでも興味がもてたかたはぜひいってみてください。僕は予備知識が全くなかったので、色々と発見するができました。以下３つに分けて、書いて行きます。１．初代　毛利秀元は秀吉からも家光からも愛されていた２．中興の祖　毛利重就はどうやって赤字から黒字に転じたのか？３．展示解説は堅い感じですが、パンフは嬉しいおみやげ。【長府博物館入口です。建物自体はレトロな昭和８年のもの。】１．初代　毛利秀元は秀吉からも家光からも愛されていたときは戦国時代のことです。中国地方を制した毛利元就の孫として毛利秀元が生まれました。本家の毛利輝元に子がいなかったのでいとこの毛利輝元の養子となります。そして、毛利家の実質的な後継者として大活躍します。豊臣秀吉の朝鮮侵略でも武将としての名をはせるわけです。そんな秀元と天下人豊臣秀吉との関係を物語るエピソードがあります。秀元が関門海峡で難破した船からある老人を助け出しました。それが実は秀吉だったのです。秀吉が朝鮮侵略中に病気の母がいる大阪にもどるときに、関門海峡で遭難しかけました。そのときに、まだ13歳だった秀元が秀吉を救ったのでした。このことで命を救われた秀吉から一字をもらい秀元という名になったという事らしいです。そんな秀吉と縁のある秀元ですから、関ヶ原の戦いのときは大変です。毛利輝元の代わりに豊臣方として戦場にたちました。しかし、毛利家は家康が勝った場合に所領をとりあげないかわりに、戦場で戦わないという密約をしました。秀元としては豊臣方として闘うことを主張したらしいですが。結局、毛利勢が動かなかったことが影響してか、豊臣方がやぶれ徳川家康による江戸時代へと動いていくのですね。その後は、輝元に子供ができたこともあって毛利家の別家として長府藩の藩主となりました。しかし、萩の本家の当主がまだ幼かったので後見人として実質は毛利家の江戸時代のはじまりをかためたそうです。また、徳川家光からも武勇と教養を認められ友と称されます。幕府御用絵師の狩野探幽による肖像画もあるくらいです。展示では、その秀元に関わるものを中心に展示されてます。展示物で心に残ったのは五大老の書や、絵地図、戦後時代らしいへんてこな飾りの兜とかですかね。いまさらですが、こういう予備知識があるともう少しちゃんと展示物を見れた気がしてきました(笑)【秀元の城跡です。そばには鯨もいますよ。】２．中興の祖　毛利重就はどうやって赤字から黒字に転じたのか？長府毛利家について調べていると気になる人がいました。長府毛利藩の８代目の毛利重就です。重就は本家に跡継ぎがいなくなり本家萩毛利家の７代目にもなりました。ところが、そのとき萩藩は大きな赤字でした。それを黒字にかえていったので、中興の祖と呼ばれてます。徳川吉宗もほぼ同時代で８代目ですよね。８代目ぐらいが転換期なのか、たまたまなのか。重就はまず検地によって収入をきめ細かくとり増収をえて、それを撫育方（ぶいくかた）として別会計にしました。そして、これを干拓や交易港の開発、製塩産業の振興などに使いました。これで黒字化しちゃったんですね。しかも、これが後々に幕末の長州藩の運動の資金源になっていったなんて話もあるくらいですから、この殿様の功績はでかいですね。こんな政治家が欲しい今日このごろ。当時の山口県の特産品として「防長四白」（紙、塩、米、ロウソク）なんて言われるらしいです。そのうちの塩についてとくに防府の塩田開発をおこなったんですね。防府の製塩については後々まで続く産業に育ってましたね。幕末の村田清風と目のつけどころはいっしょですかね。【長府毛利家の墓所。長府博物館の横にあります。】３．展示解説は堅い感じですが、パンフは嬉しいおみやげ。と、ここまで初代の秀元と７代目の重就について書いてきましたが。正直にいえば実は展示をあんまりちゃんと観てなかったのです。重就についてはもしかしたら、展示にはそんなになかったかも。だって、解説文がとっつきにくいんですもん。もちょっと興味がひけるように図解なりがところどころにあればいいのに。系図があったのは分かりやすかったですけどね。それでも予備知識がないとなかなか読み込めない感じがしました。と、文句を言っているこのブログだって良い見栄えとは言いがたいでしょうけど。一応、見出しや写真で見やすいようバランスも考えてるつもりなんですね。文章の内容については難しくてもそういう「見せ方」って必要だと思うんです。ここらへんはこの前の『展示論』の「解説文」の項目のなかでもいわれてましたね。見出しをもうちょっと目立たせたり、全体の展示の流れを示すものがあるだけでもちがったかも。もちょっと言えば中高生ぐらいが興味をもって読んで見てくれそうなぐらいの柔らかい感じが欲しかったなぁ。だって、中高生ぐらいが実は受験勉強という日常のなかで一番「歴史」というものが身近なはずなんだから。中高生が読んで理解してくれそうな工夫がほしいところ。でも、下の写真の右側の青いパンフレット「歩いて発見下関シリーズ」は良かったです。これくらいのビジュアルが展示の解説にも欲しかったなぁ。パネルを作るにも費用や時間がかかるから学芸員さんも大変なんでしょうけどねぇ。なんなら、模造紙の手作りでもいいから解説パネルつくってみてもいいかも。市民があんまりだと思って、市長に訴えるなり寄付なりしてくれるかも(笑)ちょびっと予備知識をもってから見に行くと、展示もより楽しめたんだろうなぁと改めて思いました。 【左がチラシ。右は周辺の関連史跡地図があるパンフ。】日本博学倶楽部／著『戦国武将・あの人の「その後」—「関ヶ原」「本能寺」…事件が変えた男たちの運命 (PHP文庫)』PHP研究所　2002年09月　580円秀元が秀吉をすくったエピソードはこちらの本にもあります。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店ビーケーワンbk1　全国書店のe-hon童門冬二／著『「中興の祖」の研究—組織をよみがえらせるリーダーの条件』PHP研究所　2006年06月　中興の祖と呼ばれる人たちのリーダー像をおったもの。長府毛利８代目の重就もとりあげられています。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店ビーケーワンbk1　全国書店のe-hon古川薫／著『新編歴史散歩 城下町長府』新日本教育図書　2000年06月　987円とりあえずの長府入門書ならこれ。下関市在住の古川薫氏(直木賞作家・下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館名誉館長)による長府の歴史案内。商品ページ　アマゾンamazon　楽天ブックス　セブンネットショッピング　ブックオフオンラインオンライン書店ビーケーワンbk1　全国書店のe-hon</description>
<link>http://tenjin.soreccha.jp/e162448.html</link>
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<category>・長府博物館</category>
<pubDate>Thu, 24 Feb 2011 11:08:25 +0900</pubDate>

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<title>いまさらながらの展示学入門＠『展示論　博物館の展示をつくる』</title>
<description>気付いたら10万アクセス通過です。よく分からないですけど、この中には自分がアクセスした分や、機械がチェックしにくる分なども含まれるでしょうから。単純にのべ人数とは言えないでしょうけどね。にしても何だかひとつの区切りとして嬉しいですね。そして、少しでも見にきて下さった皆様に感謝です。ありがとうございました。最初の記事が2007年の８月ですから３年と６ヶ月たってますね。42ヶ月のうち10ヶ月は記事がない月もありましたけど。そして、これが168件目の記事です。日本展示学会編『展示論　博物館の展示をつくる』という本があります。日本展示学会という「展示する」という事について考える学会がつくった入門書みたいなものです。今回はパラッと読んだその感想を。１．入門書『展示論　博物館の展示をつくる』の気になったところこの本は２〜４ページずつ60人も執筆者が各項目についてかいたものです。うーん、事典を少し柔らかく書いたようなものかな。気になったところをいくつか。さてさて、そもそもその定義とは？国際博物館会議(ICOM)の定義によると「博物館とは、社会とその発展に奉仕する一般に公開された非営利の恒久的な施設であり、人々とその環境の有形無形の証拠を研究、教育および娯楽のために収集、研究、伝達および展示をおこなうものである。」と本にはありました。「有形無形」や「教育および娯楽のために」っていう部分が意外なところで面白いですね。その博物館や美術館の始まりは、貴族たちが珍品や美術品を収集したもの、学者が標本として自然物の収集や分類をしたようなもののようです。そして、18世紀には現在の博物館の基礎となる大英博物館が誕生します。その後、日本には明治維新をへて導入されていく事だったようです。さらにより充実した意味で、ただの見せ物から情報伝達としての「展示」へと変化したのは戦前のおよそ1930〜40年代あたりだそうです。九州芸術工科大学の初代学長の小池新二は「勧業博覧会時代の展示対象は専ら物であり、文化博覧会時代の展示対象は『物に対する態度』、すなわち『物の観方』である」小池新二『凡美計画』アトリエ社、1943と表現したそうな。ふむふむ、ただ物を見せるだけでなく、「物語り」が必要とされる所以ですね。ここ、最近僕が気になっている問題、「ほぼ無限な画像・動画・文字情報を扱えるインターネットがあれば展示施設は要らないかも」問題についてはあまりつっこんだ話がこの本にはなかったのは残念。その意味では、これまでの展示の在り方を整理しまとめあげたって所で、今後の在り方についてはこれからの研究対象といったところでしょうか。日本展示学会／編『展示論　博物館の展示をつくる』雄山閣　2010年07月　2,730円商品ページamazon楽天ブックスセブンネットショッピングオンライン書店　ビーケーワン　bk1２．ショッピングモール的な博物館＠いのちのたび博物館で、たまたま『展示論』の本の中で、北九州市の「いのちのたび博物館」をつくったときのコンセプトなどがありました。特に建築構造と展示の関係について書かれているようでした。ちょうど博物館のとなりにはイオンのショッピングモールがありますが。実はこの博物館がショッピングモールのようにつくられていることを改めて確認させられました。従来の博物館では四角形の壁側にガラス張りの展示で一方通行的なものが多いかと思います。しかし、この博物館の各展示コーナーは円形や凸凹していたり、また順路をあえて定めない自由で自主的な行動を促すようなつくりになっています。それはちょうどショッピングモールのように各専門店が特徴ある形でお客が自分の興味や関心のもとにそぞろ歩くような形です。このようにすることで、変化のあるつくりで興味関心を引いて、また単純な素通りをさせないような、ありゃ、こんな所にこんなものがあったという発見などの可能性を広げます。一方で、展示の構成上もまた物理的にも実は迷路の様に分かりにくさも生まれるので、各所に全体位置図や矢印などのサインをおくなどの配慮が必要になる形ではありますが、面白いやり方ですね。展示空間を楽しませるための手法の良い例のひとつですね。インターネット上でもこういった構成はつくれますが、実際に自分がその空間であっち、こっちへと行くのはまた違った楽しみ方ができますもんね。いのちのたび博物館は前にこんな記事も書いています。１つしかないですが、もう２、３回は通った気がします。歴史系の特別展のときしか行ってないですけど。ですから、このときの記事も歴史系の展示に細かく書いてます。2007年の10月の記事だから、このブログを書き出したときだから意気込んでいたんだろうなぁ(笑)今、読み返してみると僕が言いたかったことはこの頃から変わってないなぁと。【いのちのたび博物館。】３．美術館にはメディアの力が必要なのですね。京都で見た「生活と芸術　アーツ＆クラフツ展」(前に書いた記事)についてもこの本で取り上げられていました。こうしてみると、僕はなかなか良いもの見に行ってるのかもと自負したい(笑)ここではメディアと美術館との関わりという問題の例としてあげられたものでした。この展示はもともとイギリスの美術館が企画したもので、日本の部分も重要な扱いであったので当初から日本での展示をというはたらきかけがあったそうです。ただし、イギリスからの輸送など当然費用がかかりますので、メディア(この展示では朝日新聞社)、日本の美術館の協力が必要でした。日本開催のときにいくつの変更点があったそうです。１、観客動員の実績のあるウィリアム・モリスのものを増やす。２、当地の日本の「三国荘」の再現を拡充すること。３、類似品は日本にある資料を代用して輸送費削減かつ日本の美術館の収蔵品を知らしめる。とくに、２や３は研究や収集の蓄積がある美術館があるからできる事ですね。逆に、メディアの強みとして、広報や関連グッズ、音声ガイド、タイアップ企画などがあります。また、実は日本の美術館より、海外の美術館との実績という点で強みがあることを知りました。海外の美術館は企画を日本の美術館にではなく、まずメディアにコンタクトをとるケースが多いそうな。広報や経費などを検討するためという事らしいのですが、海外の方がメディアを活用するのがうまいのかな。てっきり美術館同士でまずやるのかと思っていたのでちょっと意外。【「生活と芸術—﻿—アーツ&amp;クラフツ展」に行ったときの写真】このほかにも展示や博物館関係の本もたまには読んで紹介していけたらと思います。</description>
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<category>展示関係の本</category>
<pubDate>Thu, 17 Feb 2011 20:35:40 +0900</pubDate>

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<title>(〜2/27)グーグルに負けない美術館とは？＠山口県立美術館</title>
<description>みなさん、「グーグルアートプロジェクト」って見ましたか？世界の有名美術館内をストリートビューしちゃって作品も見れちゃいますよっていうプロジェクトが公開されました。３．webでできることと、できないことなんて書いちゃった矢先からこれですよ(笑)この件もからめながら、これからの美術館の楽しみ方について、山口県立美術館の例をみながら考えてみようかと思います。１．まずは、これまで通りの楽しみ方コレクション特別企画ということで、全部で４つのコーナーがありました。(〜2/20)吉祥の花鳥画こちらは新年らしく、不老長寿などの意味を込められためでたい鳥や華などの日本画でした。絵そのものが華やかなのは当然として、図柄に人々の願いを込めて絵が描かれる意味を考えてみたくなりますね。絵があるから不老長寿になれるわけもないんですけど、それを絵にたくす遊び心が思い出されます。(〜2/27)日本人の油絵　松田正平あ、講座には参加できなかったんですけどね。裸婦の絵を見れたのは良かったなぁ。初期の頃は普通の絵な感じなんですけど、後半は松田正平の特徴である透き通るような肌と線であらわされた裸婦へと転じてます。線で描くのは水墨画っぽくて東洋っぽさが感じられました。祝島や宇部港を描いたものもありましたよ。あと、美術館の入口の魚は松田正平のですね。(〜2/27)植木茂Ⅱ山口県に住んだことのある植木茂の木の彫刻展。こちらは手作りでもパンフを用意してて嬉しいですね。植木自身の言葉が面白い。「いい作品は、（中略）何となく触れてみたい衝動を起こさせるものである」「抽象作家と見なされているようですが、私自身はリアルでナチュラルな作家だと思っています」顔や手足のない人（トルソ）の像なのですが、その体のうねりのようなものから表情が浮かんできそうな気がします。顔はときに嘘をつきますから、表情だけに頼っていると見誤ってしまいますよね。そういう意味でも「抽象」でなく「リアル」なんでしょうね。あと解説には２群に分けて説明されてます前期と後期で分けて展示しているみたい。それならせめて一点ぐらい比較のためにも並べてくれていても良かったかな。(〜2/27)寛永の巨匠　雲谷等益前から気にはなっていましたが、水墨画の建物が定規で描いたかのように直線的。そして、今回のは山並みがおむすびサンカクのように記号的なんですよね。他にも木によって葉や華の書き方を完全に区別してスタンプのように書き込んでいる。写実的というというより決まった様式のものを配置していく美といった感じなのでしょうかね。一定のルールで描いていくという点では、イラストレターが自分の決まった形で描くのと一緒なんですね。あとは、非対称なものでいかに調和させるか、みたいなものを感じました。以上のようなかんじで、作品を前に作者の哲学や物の見方を新発見しに行くのもいいですね。実物がある特殊な空間のなかでちょっとモノを考えてみるのもいい。こういったところが美術「館」の意義のひとつだと思います。【山口県立美術館の入口。お魚は松田正平のです。】				２．みんなが表現する場としての美術館山口県立大学の卒業製作展示がやっていました。実は2008年にも僕は行っていたみたいです。パンフが家にありましたから。で、改編があったらしく今回は第一回として「企画プロデュース系」の卒業製作展示とありました。それで半分以上は実生活に関わりそうな作品なんですね。とくに雑貨などの類いのものは実際に売られててもよさそうなものばかり。チャレンジショップとかで売らないなんですかね？こういった形で美術館がハコモノとして美術系の活動に利用されるのも従来からある形でもありますね。関心をもつ人が集う場としての役割もありますね。市民レベルの作品とコレクション作品とのコラボなどもあり得るでしょうね。【山口県立大学卒業制作展のパンフ。】３．グーグルに負けない美術館のあり方グーグルアートプロジェクトは実はこちらの記事で見つけたことでした。同じところに、滋賀県立琵琶湖文化館の休館小倉百人一首文化財団の時雨殿の休館もありますね。滋賀県立琵琶湖文化館の方は財政難で休館、というより廃止っぽい。ホームページをみると施設の活動自体は活発な方のように見えるだけに残念。50年前の施設という事もあって収蔵品の移転先を検討するらしいです。日本でも何百年も前の木造のものが現役で使われたりするような事を考えると50年というのは短いじゃなかろうか。耐震性の問題などもあるだろうけど、もうちょっと長いスパンでの建物の維持を考えて欲しいものですね。一方で、滋賀県には別の博物館美術館施設ができてますしね。そこらへんも含めて長期的な計画が欲しいところです。もうひとつの時雨殿。こっちはなんだか悲しくなってきますよ。任天堂によるDSを使ったデジタル展示がうりだったのに、それが2006年開館でもう耐久年数を過ぎたって・・・(°O°;)ひどすぎませんか。こんなずさんな作り方だからハコモノ批判が出てくるんですよ。そして、ここにきてハコモノを無用のものにしそうなグーグルアートプロジェクトの登場です。ちょっと見てみましたけど、絵はかなり細部まで拡大できるようです。これなら美術館でガラス越しや柵ごしに見るより便利かも。しかもタダって。これで美術館はどう維持されるんですかね。一部だけ公開という形で餌として使うのか。あるいは、もうハコモノをなくして収蔵庫化していくのでしょうか。そのうちものによってはデジタル保存してものは破棄なんて事もあるかもしれません。【山口県立図書館の前の芝生。こういう開放感は写真じゃなかなか伝わらんかも。】従来のハコモノとしてあるリアル美術館に勝るweb美術館の利点としていくつか考えられますね。・展示会場としてのハコモノの維持費がかからない。・インターネットを通じれば誰でも世界中から見れる。・作品の拡大など画像データとして色々扱える。じゃあ、リアル美術館が勝る点はあるのかといえば・・・・展示空間としての非日常性を体感できる。・実物を目の前にして、大きさ感や質感を肉眼で感じられる。こうなってくると植木の言う「触れてみたい」っていうのがリアル美術館にとっての最終兵器？また、２の山口県立大学の例のように市民が美術活動する場としての役割なのかな。美術館も芸術論のような講座だけでなく、ワークショップや美術教室実習などが主流になっていくのかも。こういった活動がもっと主役になっていくのかな。グーグルさんによって作品を見せる美術館というものがなくなるかもと思ってしまったのですが。もちょっと美術館としてのwebにはない役割が考えていけそうですね。そういえば、山口県立美術館はすでにデータベースがあるのでweb化してるのかぁ　　【左：植木茂についても「自由な世界への道しるべ」として書かれています。】【中：卒業制作展があった山口県立大学国際学部の講演録です。】【右：講演会とシンポジウムの記録です。滋賀県の総合力？】</description>
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<category>・山口県立美術館</category>
<pubDate>Wed, 09 Feb 2011 20:10:44 +0900</pubDate>

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<title>(2/5)山口県出身の松田○○といえば・・・@山口県立美術館</title>
<description>松田優作ですね。実は僕は最近まで山口県下関出身とは知りませんでした。あんまり松田優作のことを下関で聞かない気がするんですもん。まさか在日韓国人という事が関係してる？田中絹代ぶんか館も松田優作もつけて下関の俳優記念館みたいに広げたらどうなのかなぁ。話を戻して、山口県出身の松田○○といえば優作だけじゃありません。宇部出身の松田正平という画家がいます。山口県立美術館では収蔵品もあってたびたび紹介されているようです。それで、今回はお知らせみたいなものです。調べているうちにちょっと面白くなってきたので。僕は行くかまだ分かりませんが、興味が持てた方はぜひ行って見て下さい。山口県立美術館の「天花」っていうパンフレットによると以下の催しがあるそうです。　コレクション展入門講座　２月５日(土)　たぶん14時？　「日本人の油絵　松田正平」ということでちょっと松田正平について検索してみました。１．山口県民なら知っておきたい松田正平入門松田正平といえば、前にもこのブログでこんな記事で少し書いてます。あんまり好きじゃないって書いちゃってますね(笑)松田正平については、中国新聞のこちらの記事がいちばんまとまっているかと思います。宇部出身とよくいわれるみたいですが、生まれは島根なんですね。さてさて、これ読んでいて気になったのは２点。①原発問題で話題の祝島との関係、それから長門の香月泰男との対比。②作品の特徴である「絵肌」というキーワードということで以下ではこれらについて。【山口県立美術館の入口。そう、撮ったのはずいぶん前。】				２．原発問題の祝島と、生誕100年の香月泰男、この２つの共通点は？正解は・・・もちろん松田正平です(笑)。だってその話を今日は書いてるんだから(笑)。松田正平と祝島との関係を探していると祝島ＵrauraStoryというホームページにでくわしました。そこに書かれていることをいくつか引用してみます。まず、その絵の評価については美術評論家の洲之内徹が「正平さんの薔薇の絵を見るとき、私は薔薇の見方を教わっているのだ。そうではあるまいか。いい絵は、物の本当の見方を教えてくれる。」と語ったそうです。その松田正平の画集には「祝島の朝日は拝みたくなるくらい美しい」という言葉もありました。そして、そのホームページでは「今の祝島の景色は正平さんの目にはどう映るのだろうか・・・。正平が描いた「周防灘」に原子力発電所が建てられようとしています。皮肉にも建設許可を出した山口県知事室にはその「周防灘」の絵が掛けられています。とありますね。原発問題で注目される祝島がこんなところでつながるとは思いませんでしたね。(c) cabor5｜写真素材 PIXTA【油絵のあの匂いは独特。僕は好きですね。】また、香月泰男との対比はこちらのブログにもあります。３月には山口県立美術館で生誕100周年の企画展がある香月泰男とこういう対比が感じられるんですね。企画展があるころにはコレクション展の松田正平のコーナーはなくなってるので今のうちにみておくのもありかもしれませんね。３．webでできることと、できないこと山口県立美術館では収蔵品のデータベースができてるんですね。松田正平の作品もここにのってあります。これで、インターネットで作品をみることもできちゃいますね。じゃあ、別にわざわざ出向いて見なくても・・・って気にもなりそう。ふと、ある高校の美術部がweb美術館をつくるという新聞記事が目につきました。そうか。webな時代になれば誰でも美術館つくれちゃうんだ。インターネット上にこういった場が増えて行くんでしょうね。じゃあ、いまある美術館や博物館で作品をみるという文化はなくなってしまうんでしょうか？インターネットでみるということに関してはまず大きさは画面に制限されますよね。画面より大きなものは小さくされますし。また例えば小さいものにしても画面や写真を通してみるのとではまた「小ささ」という感覚は違ってくると思います。そして、松田正平の作品の特徴である「絵肌」はパソコンの場面よりやっぱり実物を見なければ感じにくいものだろうなぁ。そういう点で、やっぱり美術館や博物館で実物をみるという事はこれからも続くんじゃないかと。ただしwebで満足ですよっていう部分もあるから美術館や博物館の独占という形ではなくなるでしょうね。ちょうど本が電子書籍化によって衰退していくように。また、一方で本のその扱いの手軽さや紙の手触りといった点では逆にその価値が見直されて一部は残っていくでしょう。美術館や博物館という空間で実物を前に作品と向き合うという文化も、情報があふれるなかでより価値あるものとして見直されて行くといいなぁ。(c) 420｜写真素材 PIXTA【作品が展示される空間。これは山口県立美術館じゃないですよ。】　				</description>
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<category>・山口県立美術館</category>
<pubDate>Wed, 02 Feb 2011 19:01:06 +0900</pubDate>

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<title>(〜2/13)「明治の錦絵と天皇」をみてみました@小倉城庭園</title>
<description>アクセスカウンタを見ると、普段は50もいかないのに昨日は100越えもしかして、水曜更新と思って見に来てくれた方々でしょうか。すんまんせん。たまたま今月は水曜更新なだけなんです。というわけでこれからも不定期更新なので、RSSなどを使うと便利ですよ。さて、今回は北九州市立小倉城庭園の企画展「明治の錦絵と天皇－民衆が初めて見た天皇の姿－」に行ってきました。といっても行ったのは去年のこと。その証拠は３枚目の写真を見ると分かりますよ。いまは後期展で全品入れ替わってますが、構成は変わってないはずです。まずは僕が興味を持った理由から。１．僕が「明治の錦絵と天皇」を見たくなったその理由ここの資料館は僕のお気に入りのところです。ただ集めて並べましたっていう展示ではなくて、今の私達がどういう視点でみる事ができるのかに配慮された感じがあるからです。前に来たときには、古い陶磁器でも今の視点からデザインとしてみる事を教えてくれました。そのものを背景を読み取るような見方が僕は好きですね。頭でっかちな見方ですけど。さて、今回は錦絵。そこに「民衆が初めて見た天皇の姿」という視点が与えられた事で興味を引かれました。いまでこそテレビにもよく出る天皇の姿ですが、それが実は明治以降にやっと知られるようになったらしいです。それまでは国の中心ではあっても、日本の国の人々はその姿を見る事もなく絵などで知る事もないのが当たり前だったんですよね。それがどういう形で知らされるようになったのか見たくなりました。また、今では錦絵というものはありません。しかし、当時は最新のマスメディアだったのです。その錦絵が時代をどう切り取って描いたのか。あるいはインターネットや電子書籍などの登場で新聞やテレビ、本等の従来のメディアの存在が危ぶまれています。錦絵の衰退を例に消えてしまうメディアとはどういうものだったのかを考えて見るのもいいかもしれません。そんな感じで興味をもって見に行きました。【小倉城庭園入口】２．錦絵には天皇はどういうふうに描かれていたのか？をみてみるさてさて、天皇について。江戸時代には天皇はもちろん武家の絵は描かれなかったそうです。どうも描くのも不遜な事であるという事らしいですが。しかし、明治になると積極的に表現されるようになります。天皇が各地に実際におもむく事や、その様子を錦絵というメディアを通して民衆に知らされる事が時代の変化を感じさせたのだとか。今でいえば、皇族がユーストリーム始めちゃうくらいの衝撃でしょうかね。それでも、天皇はさすがに身分が違います。錦絵の中で大臣などには役職名や名前の札がつくわけですが、何もついていない人物がいます。これが天皇や皇后をあらわしているそうです。主たる人物には名前なんていらないというわけですね。また、天皇がのるのりもの。馬車の乗るところが神輿になっちゃってるやつがありました。西洋と和物のコラボってこの時代らしいなぁ。なんて納得しちゃあいけません。解説には実際に見ていない職人が想像でつくったのだろうとありました。うーん、誤報ってやつですか。こうなってくると他の戦争ものとかもどこまで裏をとって描いてるのか分からんですね。【明治の錦絵と天皇チラシ】３．フルカラーな錦絵の明治という時代と、シンプルを好む現代という時代ところで、浮世絵と錦絵のちがいって知ってました？僕は江戸時代が浮世絵で明治以降が錦絵だと思ってました。しかし、これは間違い。検索するとたくさん見つかりますが、浮世絵は版画や手描き問わず江戸時代を中心とした風俗画全般のこと。錦絵は江戸中期に鈴木春信がはじめた多色刷りの版画の事だそうです。ですから、江戸時代にも明治時代にも浮世絵や錦絵って呼ばれるものはありうるって事なんですね。知らなんだ。で、錦絵はとにかく派手派手しいわけで、そりゃ多色刷りこそが錦絵の特徴なんだから当然でしたね。もっともハレの場として描くわけだから目につくように派手なだけかもしれませんが。今の時代はシンプルなデザインが好まれる傾向がありますね。僕も好きですけどユニクロやApple的なものたち。高度経済成長期やバブルの頃のものたちとはちがった雰囲気な気がします。それぞれにその時代の雰囲気があらわれているのかな。後期展は２月13日(日)までです。リバ−ウォークでバレンタインの買い物ついでにでもいかがですか？【まだ紅葉の頃。この施設には体験や教室もあるみたいです。】</description>
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<category>・市立小倉城庭園</category>
<pubDate>Thu, 20 Jan 2011 21:10:46 +0900</pubDate>

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<title>(〜1/16)361年目の徳山毛利家＠周南市美術博物館</title>
<description>周南市美術博物館の企画展「開府３６０年　凜−徳山毛利家」に行ってきました。実は僕はこの美術博物館をちょっとなめてました。ネット上で企画展などを見ていても、いまいち見に行こうっていう内容じゃなかったし。美術博物館ってどっちも中途半端そうとか(笑)。あと遠いしでも、行ってみて予想外に雰囲気や内容ともに良かったです。勝手な思い込みで評価を下げていてすんませんでした。今後ともちょこちょこ寄らせてもらおうと思います。１．現在の徳山に残る徳山毛利家のなごり徳山という地名がいつからか知っていますか？徳山毛利家の初代が名づけたものだそうです。当初は下松に館を構えたのを、当時は野上と呼ばれた地に移したのが「徳山」のはじまりだそうです。それが1650年のことだったので、2010年は360周年にあたりますね。その館があった場所というのが現在の文化会館や動物園にあたります。よく城の近くに県庁など公の施設があったりしますが。あれは江戸時代などに藩主の土地であった所に公なものをつくるようになったからなんですね。ただし、徳山は分家だったので江戸時代には藩主であっても城を建てることはできなかったようです。そこらへんが同じ毛利家でも萩との違いですかね。文化会館の前の庭には、大阪城築城に毛利家がおさめた残石を発見。横には一の下に○という、毛利家の家紋を略した印がありますね。山口県立山口博物館にもあったやつですね。実はこれ周南市の大津島産です。黒髪島と大津島でとれる「徳山みかげ」という石は、国会議事堂の石材にも採用されているそうですよ。今でも墓石としてブランド品だそうな。【大阪城築城の残石。大津島産だそうです。】２．徳山毛利家のお宝が勢揃いの企画展でした。企画展の展示の方はというと、歴代の徳山毛利家の肖像画とともにゆかりの品々を並べるといった内容です。歴代藩主の絵図を見ていて不思議だったのは左向きと右向きが交互に繰り返されること。並べたときのバランスを考えての事ですかね。また、「シャク」（笏）という木の板の持ち方や構え方も各々違うんですね。これは各人のキャラとかと関わりあるんでしょうかね。万役山事件 （まんにゃくやまじけん）というのを初めて知りました。萩藩とのいざこざで潰れかけた徳山藩。そこで、百姓が幕府への直訴をして復興させたという事があったらしいです。その直訴の文章をみると知識がある人が書いたものだそうで、百姓というのは形だけっていう事らしいのですが。それでも、なんだか民衆の徳山毛利家への愛着を感じさせるエピソードですね。個人的には合戦に関わる絵図っていうのを初めて見て面白かったですね。鎧の着方をふんどし？姿ぐらいから説明している図とかもあります。あと、合戦の様子を描いたものにはそれぞれの役割が書かれていたりして。料理当番らしき人もいたりしてね。こういった絵図があるって事はやっぱり戦の時代だったんだなぁと思いきや。逆に絵図にして残さないと忘れ去られるほど平和な時代であったとも解釈できるそうな。逆説的な論理で面白いですね。花押の実物があったのは面白かったですね。花押は武将が文書の最後に書いたサインがもとですが。やがてハンコの形になっていくんですね。ほとんどは木のものでしたが、なかには中国の古代のハンコみたいに石で持ち手の装飾も立派なものもありましたよ。【周南市美術博物館入口】３．想定外にバラエティ豊かな展示のおまけ展示会場というのは余計な邪魔が入らないように静かなものですが。この会場では音楽が流れています。それは、10代元功(もといさ)が鳥羽・伏見の戦いのあとにイギリス留学したときに持ち帰ったオルゴールの音だそうですよ。さすが、実際にその場でずっと動かすわけにはいかないからCD音源ですけど、きれいなもんですね。また、無料で置かれている付録がたくさん。中国新聞社にのった記事を集めた冊子。徳山中心部の史跡マップ。これは、今後も徳山観光に役立ちそうなのと、徳山にも意外と歴史的な見所がたくさんあるんですね。あと、「徳山毛利家入門」として系図がのったもの。それから周南市文化振興財団の月刊通信にあった連載。ここらへんをまとめると軽い新書ぐらいはできそうな内容です。この他にもイベントとして学芸員によるギャラリートーク、「毛利と私」というテーマで市民に募集したエッセイ、香道体験、子供達による史跡石碑の拓本、行列図にセリフを書くコーナーなどなど。いやー、お腹いっぱい。また、ギャラリートークなども多くの人が参加していて徳山ってけっこう歴史好きな人いたんだぁと思いました。周南市美術博物館。なめててすんませんでした。徳山毛利家のこの企画展は1月16日までですが、また別のときに今度は期待をもって寄らせてもらおうと思います。併設のカフェもいい感じですし。【周南市美術博物館内のカフェ。噴水を眺めるカウンター席があります。】</description>
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<category>・周南市美術博物館</category>
<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 10:22:00 +0900</pubDate>

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<title>古い消防ポンプを物語る@益田市立歴史民俗資料館</title>
<description>島根県益田市立歴史民俗資料館の「企画展　わが家の宝もの展」に行ったときの事です。入口に古い錆びた、かたまりが。いつもは展示全般について語りますが。今回はこの一つの古いの物のもつ物語を。１．なんじゃこりゃ？古びた消防ポンプに込められた物語さてさて、資料館の入口においてあった古い錆びたもの。それは、昔の消防ポンプでした。1927(昭和2)年の昭和天皇即位記念に納入されたとありました。当時の美濃郡鎌手村の村民の寄付で購入されたようです。ちょっと「昭和天皇即位記念　消防ポンプ」で検索してみました。すると、神奈川県の厚木市の年報に似た記事があったり、福岡県でも同じような事があったり。どうして、天皇の即位記念が消防ポンプなの？と思ったのですが。1923年（大正12年）の関東大震災のあとだったからなんでしょうかね。それにしても村民の寄付で消防ポンプなんて粋ですね。今じゃ、そういうもんは国や税金でやるのが当然だっていう感じですが。すぐに国や行政にまかせたり、何とかしてっていう前に自分達でできる所からする。そういう事が今の社会に、もうちょっとあってもいいのかも。【入口にあった昔の消防ポンプ】２．厚狭から益田へ、消防ポンプがやってきたその理由とは？実はこれ、山口県の厚狭からきたものなんですね。なんで、わざわざ厚狭からきたのかが謎です。益田には扱う業者がいなかったんですかね。それとも、当時は厚狭の町がよっぽど発達していたのかな。また、ポンプにどうどうとお店の名前をのせてますね。これは宣伝の意味があるのかな。解説にはドイツ式とあるし、四隅には青い文様、昭和天皇即位記念と豪華だし。このポンプが陸路で来たのなら、道中にいい宣伝ができたかもしれませんね。あるいは、益田で使っているのをみて、さらに厚狭に注文がきたかもしれません。思いがけず、益田で厚狭の字を見つけちゃいました。何回か訪れてるはずなんですが。今回やっと気付く事ができましたこういう発見があると、何度も訪れたくなっちゃいますね。【「山口縣厚狭町　山陽喞筒(ポンプ)　伊藤商會納入」とあります】３．ひとつの古びたものの物語からひろがる世界ひとつの古いポンプから、昭和天皇即位記念と銘打って地方でも様々な事がなされたこと。関東大震災後に地方でも消防の意識が発達した？事。山口県の厚狭と益田のつながり。ドイツ式の消防ポンプがこういう地方まで出回っていた事。などなど話が広がりましたね。あとは、これが他の資料とかと関連してくると企画展として物語になりそうなんですけどね。想像していくと、なんかわくわくしてきます。何の気もなしに見かけた物を調べてきたのだけども。自分で疑問に思った事を調べて行くのは探偵のようで面白いですね。この資料館のなかには他にもいろんな資料がつまっていそうです。益田市立歴史民俗資料館【資料館入口】</description>
<link>http://tenjin.soreccha.jp/e152683.html</link>
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<category>・益田市立歴民</category>
<pubDate>Wed, 05 Jan 2011 13:58:23 +0900</pubDate>

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<title>(〜1/10)わが家の宝もの展・前期＠益田市歴史民俗資料館</title>
<description>島根県益田市立歴史民俗資料館の「企画展　わが家の宝もの展（前期）」に行ってきました。一般の市民の方が「お宝」を持ち寄る企画展です。何とか鑑定団ばりに何でもありの展示でした。１．まずは常設展　「頑張ってるなぁ、この資料館」と思えるところ【大正10年建築の郡役所を改装した資料館】資料館の建物は､大正10年建築の郡役所を改装して使用しているそうです。平成８年には国の登録文化財に認定されています。この地方の特色の赤い瓦がふかれてますね。一見、昔懐かしい小学校のような雰囲気です。さてさて、ここは常設展もきれいに整理されています。僕がここを訪ねるようになったのは、10年前ぐらいからだと思いますが。少しずつ、内容が多岐に渡るようになって充実してきていると思います。各資料についての説明も端的にそろってます。郷土の偉人として、作家の田畑修一郎、将棋の岩本薫和、ラジオの徳川夢声が並びます。地元の焼き物として、今はもうつくられていない喜阿弥焼や白上焼。国指定史跡である七尾城跡や三宅御土居は中世の益田氏の資料です。それから、昔の古い道具を見て当時を思い出して脳を活性化させる「若返りの間」。最近では公式ブログもできてますね。時がとまったような資料館が多いなかで、ここは頑張っている資料館のひとつですね。欲を言えば、各資料の個別の説明だけでなく、その資料群をつかった「物語り」も充実したらなぁと思います。２．今回の企画展　「わが家の宝もの展」からひろがる世界(c) yychs｜写真素材 PIXTA【これは写真サイトから借りて来た写真ですが、展示物にはバットなんかも】さてさて、お宝展は前期と後期で展示替えされるそうです。僕がみた前期に展示されていたのは、油絵や仏像といった類いのものから。イチローや松井のバット、最近のミニチュアのおもちゃ。それから、同好会でつくられたパッチワーク作品まで。出品者の想いのこもったそれぞれの「お宝」が並んでました。展示を見ていて思ったことは、物それぞれに出品者の想いがあるんだろうなぁって事。ただ物を展示するというより、その想いを伝えて行く事が大切なのかも。例えば、バットでもどうやって手に入れたのか、なぜ大切にしたくなるのか？みんなでつくったパッチワークなら、各々の人生と織り交ぜてとか。こういう企画展は特に地元市民との交流に役立ちますね。地元にどういう資料があるかという情報を蓄積できます。また、市民と資料館との関わりも深まります。さらに、これが市民同士のつながりまでに広がると良いですね。３．もっと市民と近くなる企画展を考えてみると・・・(c) zafira｜写真素材 PIXTA【パッチワークも展示されてますが、こちらはネットから拝借】小さな資料館などの展示はその多くは1,2人の学芸員さんの企画です。そこには、ほぼ個人だからできる統一感があります。一方で、内容や展示の仕方にしても悪く言えば「独りよがり」になるものです。そこで、ワークショップ型で多くの市民の参加型の展示があってもいいんじゃないかと。パッチワークのように、色んな市民の個性でできあがる企画展。例えば、歴史展示は主に歴史が好きな学芸員さんがつくります。そうではなく、あまり歴史には興味がないんだけどっていうような人も参加して展示をつくる。そうする事で、違った視点での企画、展示の見せ方ができる。学芸員さんもそういう視点は学べるし、市民の人もより資料館や展示を楽しめるのでは？月一ぐらいで集まって継続的につくっていき最後に企画展という形にする。講演の類いはよくあるけど、たいがいは受動的だけになってしまいがち。自ら意見を出して、または調査・研究もかねるような能動的な関わり方。古写真の整理に市民の参加する萩博物館のような例もありますね。また、民俗資料は今でないとできない事があります。今ならまだ、それを実際に使っていた人がいるかもしれない。数十年後にはその方々もいなくなり、その用途や物のもつ意味が分からなくなります。例えば、ちゃぶ台が机の類いなのは分かっても。それを囲んだ家族の雰囲気とかは記録しないと忘れ去っていくものかもしれません。物にはそれぞれに「物語り」があります。企画展「わが家の宝もの展」前期は１月10日(月・祝)まで。あ、年末年始の休みあけは１月４日から開館みたいです。後期は1月15日(土)〜2月13日(日)だそうです。↓似たテーマのブログのランキング・リンク集です。↓にほんブログ村↓似た内容の記事へのリンクです。↓  writeSimilarList( 'http://tenjin.soreccha.jp/e153401.html.html' ); document.write(unescape("%3Cscript")+" src='http://widget.zenback.jp/?base_uri=http%3A//tenjin.soreccha.jp/&amp;nsid=92496013033479759%3A%3A92496025113104825&amp;rand="+Math.ceil((new Date()*1)*Math.random())+"' type='text/javascript'"+unescape("%3E%3C/script%3E"));</description>
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<category>・益田市立歴民</category>
<pubDate>Thu, 30 Dec 2010 09:52:54 +0900</pubDate>

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<title>(〜1/10)美術館にロボットがきますだ＠石見美術館</title>
<description>島根県益田市のグラントワ内の県立石見美術館の「ロボットと美術―機械×身体のビジュアルイメージ―」に行ってきました。ガンダムだってありますよ。初音ミクだってありました！１．美術館でロボットをながめる(c) はたけ｜写真素材 PIXTA人の形をしたロボットを美術として戦前、戦後、現在をみてみようという展示。「ロボット」という言葉はすでに戦前から誕生していたというから驚き。そして、戦後はマンガなどで大衆文化として、アトムやガンダムなどが並びます。最後は、現在の実在する人形ロボット、あるいはロボット的なもの。初音ミクまでとりあげてましたよこうしてみると、ロボットと言われるもののイメージも様々で。機械のイメージを残した四角い箱を組み合わせたもの。ガンダムなどのようにカッコ良くデザイン化されたもの。そして、アシモのごとく、より人間的な丸みをもって表現されるもの。それは各々に求められている機能やイメージが違うからだろうなと感じました。２．日本文化としてのロボット(c) トミヤン｜写真素材 PIXTA展示のタイトルは「ロボットと美術―機械×身体のビジュアルイメージ―」だけど。しかし、むしろ「日本のロボット文化」といった感じです。半分以上は日本のロボット像ばかりです。海外のロボット文化ってものがあまり発展してないせいなのかな。いや、ただ単に海外ものは集めにくかっただけかも。しかし、逆に日本以外の動向が知りたくなりました。発展系として海外でのロボットの描かれ方との比較をまた企画してくれませんかね。二足歩行のロボットを目指すのは日本だけだという話をどこかで聞きました。それは、技術者達が子供のころにアトムやガンダムを見て育ったからだって。いまや日本のアニメが世界中で見られているなら、世界のロボット文化も変わってくるかも。３．あらためて、ロボットを美術的にみるということとは？(c) ふじん｜写真素材 PIXTAなんだか哲学や日本文化論的な展示に見えてきたけど。ここで、美術的な話。戦前にキュビズムという手法がありました。人を幾何学的に表現したものですが、それがロボットの形に影響しているらしいです。うーん、どうなんでしょうね。ロボットの美術というより、むしろロボットの歴史展にも近かったような。最後の１コーナーとして、様々な時代のものを横に並べた展示があれば良かったかも。あえて時代性を排除したときに、形や表現のしかたとして各ロボットがどう見えるのか。答えでなくても、問いかけだけとしてもね。あれ？そういえば入口にそんな感じでいくつかロボット並んでいたっけな？年明けの終了まで近いですが、まだまだイベント残ってそうです。↓似たテーマのブログのランキング・リンク集です。↓にほんブログ村↓似た内容の記事へのリンクです。↓  writeSimilarList( 'http://tenjin.soreccha.jp/e152452.html' ); document.write(unescape("%3Cscript")+" src='http://widget.zenback.jp/?base_uri=http%3A//tenjin.soreccha.jp/&amp;nsid=92496013033479759%3A%3A92496025113104825&amp;rand="+Math.ceil((new Date()*1)*Math.random())+"' type='text/javascript'"+unescape("%3E%3C/script%3E"));</description>
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<category>・県立石見美術館</category>
<pubDate>Wed, 22 Dec 2010 21:14:28 +0900</pubDate>

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<title>(〜1/10)近代の塩業展でビジネス＠防府市文化財郷土資料館</title>
<description>防府市の文化財郷土資料館の「近代における防府の塩業」に行ってきました。ここは２度目です。前は映画「マイマイ新子と千年の魔法」にかけた展示のときでした。いわゆる市町村の資料館にしては、面白い展示をやってるなぁって印象でした。さて、今回は？１．「近代における防府の塩業」っていうみるからに堅い感じだけども・・・【資料館入口です。旧図書館内にあります。】防府は実はかつて塩の生産地として有名でしたが、特に明治から昭和の時代をおった展示。展示しているものは、塩をつくる塩田の図や、工場での工程を模型で説明したもの。それから、組合関係の契約書類などや、そこで働いていた人々の記録などです。しかし、タイトルから、また展示内容からも興味を持てる人は少ないかも・・・。それでも、個々に見るとおおっ思えるものもありましたよ。塩の商標登録の書類のなかに当時、農商務大臣であった後藤象二郎のサインがあったり。昭和の契約書には個人名もあるので付箋でふせてたり。うーん、大昔なら堂々と展示されるだろうけど、今に関わる歴史なんだなぁと改めて思ったり。２．塩産業をどう維持していったか、ビジネス史としてみると・・・解説シートがあるのはお土産感があって嬉しいところ。ふりがなやなるべく専門用語を使わない配慮も親切。それでも、全体的にとっつきにくい感じなんだよなぁ。現代からどう見たら面白そうかといった視点が欲しい。唯一、面白かったのはビジネス的視点の記述があった事。公的な専売統制がなくなって、塩の価格が不安定に。その時に、どうしたかという歴史をビジネス的視点でみる。現在の問題とも通じる事で歴史の活用に通じそう。統制する組合的組織をつくったり。ブランド化して価値を安定化させたり。海外等あらたな販路を開拓する。といった対策がとられたようですよ。【(c) oiDON｜写真素材 PIXTA】ビジネス視点で歴史を見るってのは面白そうですね。特に歴史学とかなんて「実の利益」に役立たないなんて思われがちですが。江戸時代以降とかは、十分に今のビジネスとしても参考事例になりうるんじゃないかな。古代や中世は現在のビジネスとは全く異なる世界観として対比する視点も大切だけどね。３．塩からどう視点をひろげていけるのかな？【看板。道のほうにも企画展の印があれば良かったのに。あった？】けっこう硬派な感じの展示で、特に書類などの文書の展示はかたい印象。じっと読み込む事の少ない展示という方法のなかで、どうビジュアルで見せて行くか。表現しすぎて間違った印象になってもいけないですし、ここがやっぱ難しいところ。だからこそ、展示を貫く視点が大切なんだろうなぁ。また、塩に関してはまだまだひろげられそうですね。美濃ヶ浜式製塩土器も比べてならべると山口県の資料だけで製塩の企画展ができそう。あと、塩がその時代ごとにどういう役割をしたか追うともっとひろがりそう。戦争時に塩作りをさせられた子供に焦点をあてたのも、今後戦争の展示に使えそうだし。防府市でも旧塩田地域周辺に住む方や、当時を知る人にはより身近な展示かと。また、食糧生産に関わる人は、どう生産し売っていくかを塩の歴史に学べるかも。「近代における防府の塩業」展は年明けの１月10日まで（12月29日から１月３日は休み）です。帰省がてらに当時を知るおじいちゃんに連れてってもらえるといいですね。三田尻塩田記念産業公園にも行ってみたい↓似たテーマのブログのランキング・リンク集です。↓にほんブログ村↓似た内容の記事へのリンクです。↓  writeSimilarList( 'http://tenjin.soreccha.jp/e148927.html' ); document.write(unescape("%3Cscript")+" src='http://widget.zenback.jp/?base_uri=http%3A//tenjin.soreccha.jp/&amp;nsid=92496013033479759%3A%3A92496025113104825&amp;rand="+Math.ceil((new Date()*1)*Math.random())+"' type='text/javascript'"+unescape("%3E%3C/script%3E"));</description>
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<category>・文化財郷土資料館</category>
<pubDate>Tue, 07 Dec 2010 21:00:01 +0900</pubDate>

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