2011年03月02日
(〜3/21)もしも地質屋が画家になったら@高島北海in下関
さてさて、今回の展示は下関市立美術館の「特別展 没後80年高島北海展 造化の秘密を探る」です。ちなみにタイトルは「もしドラ」すなわち『もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を真似てみました(笑)。
高島北海とは、いわゆる日本画家ではありますが、ちょっと異色の経歴の持ち主です。医者の息子として生まれ、地質や山林の役人となり、後半生になってやっと画家という肩書きになるといった人でした。そして、作品にもその影響がみられ、地質学や植物学などの知識をもって描かれたものでした。さらには、長門峡などの整備などにも関わるなど地学者と画家の両立をやったような人でした。
以下はこんな感じです。
1.異色の画家 高島北海からのクイズに答えられますか?
2.絵描きなら「腹からでたもの」をかきなさい
3.金のためには描くんじゃない。夢のために描くのだ。
1.異色の画家 高島北海からのクイズに答えられますか?
高島北海の略歴はこちら。
1850年 萩藩の藩医の次男として生まれる。
1872(明治5)年 23歳のときから3年間、兵庫県・生野銀山の鉱山学校に赴任。
フランス語や地質学や植物学を学ぶ。
1878(明治11)年 29歳のとき、『山口県地質分布図』『山口県地質図説』を書く。
日本人による最初の地質図にあたる。
1884(明治17)年 35歳のときに、森林の役人としてヨローッパへ。
山林をスケッチし、芸術家とも交流する。39歳に帰国。
1897(明治30)年 48歳で役人をやめ、長府に隠棲すし、画業に専念する。
1902(明治35)年 53歳には東京に移住し、中央の画壇で審査員など務める。
1923(大正12)年 64歳のとき、整備に尽力した長門峡が国指定名勝となる。
関東大震災を機に長府に戻る。
1931(昭和6)年 東京に上京中に亡くなる。
さて、こういう経歴をもつ北海からの宿題です。
展示のなかで25番の割と大きな「山水図屏風」というのがあります。そこには、洋装の男性が腰掛けています。そして、儒学者、僧侶、神官、西洋人のカップルを相手の話をしている様子のものがあります。何かを暗示したかのようなモチーフですが、これの意味は?
解説にも特に解釈は書かれてません。自由に発想してってことかな。僕ならこの話し手は北海自身かと思ってます。
地質学や森林学、画家、そして海外留学など多彩な面をもつ北海。日本での従来の知識者と、西洋も含めてこれからの日本人の方向性を語るといったところでしょうか。ただし、語る人の前に大黒様がもつような袋と小槌がころがっているのも何かのヒントかもしれませんね。みなさんはどう思います?
【下関市立美術館。】
2.絵描きなら「腹からでたもの」をかきなさい
さてさて、謎解きはおいといて(笑)。全体としては山脈の画が多いですね。しかも地質学者っぽく普通の山水画とは何かちょっと違った雰囲気です。いまいちどこがどう違うのかはうまく説明できないんですけど。ちょっとリアルな感じ。でも、こういう雰囲気のものは僕は好きですね。
また、北海の作品のなかでは山の絵より僕は植物のものが色鮮やかで好きですね。植物のスケッチなどの方が、より植物学者っぽく細かな描写が見て取れます。
図録にのっていた高島北海の文章がありました。その中で、美術家に必要なものとして2つあげています。1つは、美の感覚を養うこと、2つは、その美を表す技能を磨くことです。「北海流の写生」ついても示しています。それは「腹から出たものをかく」ということ。実物を見て、ただそのままの形や色で表すのではなく、その物質の性質やつくりを研究してそこから自らが感じ取れた美を写し取るのだと言っています。
だから、山にしても、植物にしても北海の画は写真のようなものとも違った美しさが感じられたんだなぁと思いました。そういえば吉村さんの作品でも精緻さはありますが、ただ本当に写真のようだというのともちょっと違う美を感じていたのはこの事と共通しそうですね。
【今回の図録は買いでした。関連文献など資料が充実してますよ。】
3.金のためには描くんじゃない。夢のために描くのだ。
さてさて、晩年にも北海は他の分野の仕事を残しています。それが長門峡などの保護整備です。長門峡の名付け親でもあるそうな。今、ちょうど萩博物館の展示でもちょうど長門峡の観光案内のものが展示されてましたね。
さらには青海島、石柱渓、須佐湾などの整備などにも尽力されたそうです。実は前に石柱渓の記事していました。「石の柱?超古代文明か? 旧豊田町の石柱渓」なんて随分あおったタイトルにしちゃってますね。それにしても、思わぬとところで、リンクしてくるとまた楽しいところ。美術館と博物館、それからフィールドの史跡がリンクしてくるなんて!
当時の北海について娘さんの証言も図録にありました。北海はお金のための仕事はしなかったそうです。当時の横綱が「お金はいくらでも出すから化粧まわしを描いてくれ」と注文しました。その後、化粧まわしの件はどうしたのか尋ねると金が欲しい訳じゃないからと断ったそうです。でも、長門峡の整備のときは違いました。一幅百円で絵を描いて2万円のお金を工面して道路と橋をつくったそうですよ。それだけ、長門峡ってものに惚れ込んでたんでしょうね。
北海が長門峡や石柱渓などの保全整備に尽力したのは、さきほどの絵描きの心得とも通じるんだろうな。後世の絵描きにもまずは実物が見れる環境を残してやっておきたいっていう気持ちもあったんじゃないでしょうかね。
【石柱渓入口。左の積み石は北海を記念したものでした。】
高樹のぶ子/著 『HOKKAI』高島北海の小説。防府出身の高樹のぶ子さんには「マイマイ新子」もありますね。
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また、萩市のブックレット14にも高樹のぶ子さんの講演録がありますね。
今回の展示は「素材勝ち」ですね。高島北海という人に色んな面があるからそれだけでも十分面白かったです。もちろん、この素材を発見してきてこれまで蓄積してきたものがあったからこそですけどね。20年後の没後100年には研究も進んでもっと多角的に深みのある展示会ができていると良いですね。
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